葬儀・お葬式の民俗学。古来より日本に伝わる葬送儀礼について歴史を紐解きました。

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葬祭研究所

葬儀・お葬式の民俗学

葬儀の民俗学

著書:山田慎也
国立歴史民俗博物館民俗研究部助手。専攻は民俗学。葬儀と死生観に関心を持ち、現地調査に基づき研究を進めている。

夜を通して死者とお別れ。葬式前夜の儀礼・通夜の変遷

今はお通夜というと葬式の前夜の儀礼としてとらえられており、なかには「通夜式」という表現もみられる。そして葬儀告別式に出席できない人が通夜に参列するものとして考えられている。現在の東京などでは、だいたい一般の会葬者は日中の葬儀告別式ではなく、通夜に参列する人も多く、見込みとして通夜の参列者の1/3程度しか来ないと言われている。
通夜というのは字の通り、「夜を通して」ということであり、夜を通して死者とともに過ごすということである。だから通夜のことを夜伽という地方も多い。つまり死者を慰め、最後の別れをするためにともに過ごすことになる。
ただし、古代の殯(※かりもがり)が通夜の原型と言われることもあるが、それ以降どのように変容して現在のようになったかは定かではない。しかも庶民では長期の殯は不可能であり、「死人の大食らい」という地方もあるように、葬儀が長期にわたると経費がかさむことから、なるべく早く終えようとする傾向があった。そう考えてみると、殯と通夜を直結させることは難しい。
すでに述べたように、通夜式といったような儀礼ばったことはなかったのであり、これを示すように多くの宗派では通夜のための特別な儀礼はなく、日常の勤行をすることがほとんどである。また通夜を行う人びとも、かつては多少あらたまった衣服ながら近親者でも喪服を着ることはなかった。

新潟県佐渡市高千地域の通夜の念仏の様子

通夜の念仏・新潟県佐渡市高千地域(1997年)
地域のおばあさんならたいていの人が唱えられる。

念仏の合間の休憩の様子

念仏の合間の休憩。
酒や煮物などで次の念仏が始まるのを待っている。

しかも通夜には僧侶が来ず、読経がないという地域が全国で多くみられる。村内に住職がいたとしても、枕経は行っても次は葬儀式の読経となることが多い。この読経の代わりに、地域の老人などによる念仏や西国三十三番や善光寺和讃などのご詠歌が詠唱されることもある。

通夜では、「仏が迷う」などといって、線香やろうそくの火を絶やさないように近親者が夜通し起きている。新潟県佐渡市の外海府地域では、近親者とともに村人も念仏を行うため一晩喪家で過ごすことが昭和50年代まで行われていた。これは約40分ほどの和讃や念仏を一晩に3回ほど唱えるからである。かつては宵の念仏が午後7時頃、夜中の念仏が午前0時頃、夜明けの念仏が午前3時頃に行われ、それぞれの間には西国三十三番のご詠歌や四国八十八カ所のご詠歌を休憩しながら唱えていた。現在は夜中の念仏を午後10時頃に、夜明けの念仏を翌日にかかるように11時半頃に行って、あとは近親者だけの通夜となっている。

念仏の本

夜通し起きていることによって、さまざまな飲食を伴うことになる。千葉県東部では、香典とは別に「伽見舞」「通夜見舞」と称して食品が贈られた。九州地方でも、メザマシといって参列者は食品を持ち寄った。このように「見舞」「目覚まし」と通夜の贈答は死者への供え物というよりは、通夜をする人びとへの贈答であったと考えられる。そうした通夜での飲食が、関東地方では「通夜振る舞い」と称し、いまでは刺身や肉などのご馳走が並ぶようになっている。東京でも握り寿司や刺身などはせいぜい30年ほど前からと言われ、それ以前は精進料理として、お煮しめや天麩羅、海苔巻き、稲荷寿司といったものが並んだ。これも葬儀前の精進中であることを考えれば至極当然なのであった。
このような通夜も、葬儀の代わりとして、しかもその多様化によって、大きく姿が変わろうとしている。
※死人を埋葬する前、しばらくその死骸を棺に入れて安置すること。

香典と米

香典は香奠ともいい、仏事においては香を献ずることから、香華の料として亡くなった人に供える金銭や物品のことをいう。現在では香典というと現金だが、かつては金銭よりも葬儀に用いる食品、なかでも米を供える地域は多かった。近親の人はその関係に応じて多額の香典を負担するが、これは米などの食品も同じであった。とくに米の場合、一俵香典といって俵で供える慣習が関東、中部、九州など各地でみられる。
例えば千葉県銚子市小畑町では、亡くなった人の子供はそれぞれ現金のほか、「荷代(にだい)」として米を一駄(米二俵のこと。かつて馬で二俵ずつ運んだため)、兄弟などは米を一俵などと大量の米を供える。そして俵を祭壇脇などに飾って喪家(葬儀を出している家)の偉容を誇ることもあった。
その一方で村内ではわずかではあるが一定額の香典を家々から集めることがある。これも金銭だけでなく米を集める場合も多く、前述の小畑町の場合、地域の人々は「叺(かます)」といって米を二升持ってきた。
葬儀では近親の人々は死の忌みのため何もせず籠もっているものとされ、地域の人々が葬具を作り、火葬や土葬を行うなどして実務を担っていた。こうして多くの人手を必要としたため、食品の調達はもっとも重要であった。
死の忌みを重視する地域では、近親者の大量の米は忌み籠もるための食料。そして忌みに関係のない地域の人々は、近親者と同じ火で調理した食品を食べると死の忌みを受けるため、手弁当として少量の米を持参し別の火で調理した。一方、死の忌みとは関係なく参列者すべてに食事を提供することが、死者の供養となると考える地域もあり、その素材として大量の米が供えられ、消費されたのだ。

新潟県相川町で香典として備えられた米が積み上げられている様子

左下に積み上げられているのが供えられた米
(新潟県相川町'97・12月)

相川町の親類による香典開き

親類による香典開き
(新潟県相川町 '97・12月)

いずれにしてもこうした食品や現金が葬儀を支えることになり、喪家に蓄えがなくとも集まった香典により葬儀を出すことが出来たのである。香典は義理という地域もあるように、受けた義理は相手の不幸の際、同じように返すことが期待された。そのため代々の香典帳を保存し後の参考にしたのである。
香典に対する返礼は相手方への香典によって返されたため、香典返しは特に行われなかったようで、せいぜい施行(せぎょう)として食事やまんじゅうなどの菓子が提供された。現在でも京阪神で葬儀で配られるハンカチや商品券を「粗供養」というのは、そうした施行の慣習からであった。
しかし、葬儀における施行的な要素は無駄なものとして簡略化されがちであった。また都市部では、相手の葬儀があったときに相応の香典を出すことが難しく、香典をもらったままで借りを作ってしまうことも起きてきた。そこで金額に合わせて香典返しをすることで、義理を精算し将来の借りをなるべく負わないための現代社会的対応がなされたと考えられる。ただしすべてを返しては好意を無にするということから、半返しという便法が広まったのであろう。

死出の旅立ちから永遠の眠りへ

かつて東京などでは葬祭業者のことを「棺屋」と呼んでいた。棺は葬儀の際に最低限必要なものである。東京でも昭和40年代までは、棺を自作していた業者がいくつもあったという。現在、棺といえば遺体を横たえて入れる寝棺が普通であるが、かつては座棺の方が一般的であり、沖縄や千葉などでは膝だけを立てて入れる半寝棺もあった。
明治期の葬儀の様子について記した『東京風俗誌』でも棺について以下のように述べている。
「棺は貴きは二重棺を用ふ、多くは木製の長方形なる寝棺なり、下れるは単なり、また略ぼ方形の立棺を用ふるもあり、陶瓶を用ふるもあり。賎きは早桶または桶棺とて、竹箍を以て結へる桶を以てす、甚だ粗末なるものなり」
これによると柩はまず寝棺と座棺に区別され、寝棺も二重棺と単の棺があり、座棺も材質によって方形の木棺、陶器の甕棺、早桶(桶棺)などに分かれていたという。
当時、寝棺は社会的地位の高い人が使用し、特に二重棺は高級なものであった。二重棺の内側の棺は遺体に触れるので「お肌付き」ともいう。明治末期になると裕福な商家などでも二重棺を使用しており、東京のある商家では、明治41年の葬儀で、内箱は8分(2.4センチ)厚の椹材、外箱は1寸2分(3.6センチ)厚の樅材を用いており、相当なものであったことが窺える。

また座棺も四角い方形だけでなく、地方によっては六角のものもあった。和歌山県古座町でも六角の棺であり、シニスン(死にすん)といって高さ二尺四寸(72センチ)で、板厚は4分(1.2センチ)である。また甕棺も各地で使用されており、九州北部では昭和50年代まで生産され使用されていたという。早桶は時代劇でもなじみがあるが、ランクとしてはもっとも下の葬儀となった。
『東京風俗誌』で述べているように、明治期の東京では高貴な場合には寝棺を用い、桶は最も賎しいものとされていた。棺の種類とそれを用いる死者の社会的な身分が密接に関連していたことがわかる。

「東京風俗誌」平出鏗二郎1971(1901)下の巻(復刻版)原書房より

東京風俗史の中の葬具の挿絵

ところで現在では、寝棺のなかに専用の布団や枕を使っている。つまり死者は横になって眠る形になっているが、こうした形式になったのは近年のことである。かつて座棺の時には、死者は死装束をつけ、そこに膝を抱いて座らされており、布団を掛けるようなことはなかった。あくまでも旅支度をしてあの世に旅立っていくのであり、眠るという発想はなかったのである。そのため寝棺でも、底にはマコモのござなど座るための敷物を敷いており、そこに直接遺体を横たえていた。
しかし横たえるということから専用の布団が用意されるようになり、死者は寝棺で眠るという形式になった。つまり死者はあの世に旅立つよりも永遠の眠りにつくということが強調されることになる。こうした発想は、あの世の存在を信じられなくなってきた現代の観念とも関係があるのであろうか。

和歌山県古座川町にて座棺を埋葬する様子

和歌山県古座川町にて
座棺を埋葬する様子

死者を送り出す葬列

近ごろでは葬儀専用会館において通夜から葬儀告別式、初七日とすべてを行う葬儀も増えてきた。それ以前は通常、自宅において通夜、葬儀を行っていたが、さらにもっと前は、葬儀は葬列をはさんで自宅、葬場と二段階の儀式が一般的であった。いまでも葬列をしているところもあるが、東京や大阪などの大都市でも大正期まで行われており、霊柩車の登場とともに葬列は行われなくなった。
葬列をする場合、自宅で出棺のための読経、焼香を行い、遺族や参列者が行列して寺院や墓地、火葬場など葬場に向かい、そこで改めて読経、焼香をして遺体を埋火葬した。そして葬列が葬儀のなかでもっとも重視されていた。

上野山の墓地

海が見える上野山の墓地(古座地区)

葬列はそれぞれ役割があり、地方ごと、地域ごとに例えば位牌は喪主、お膳は喪主の妻など細かく分担するのが慣習となっていた。だから参列する人々はその役割を聞いて死者との関係を理解することも多く、葬列は人々の注目を浴び、時にはその役割を巡って争いになることもあったという。このように葬列は社会関係を表す重要な働きがあった。
また葬列は単に場所の移動ではなく、同時に死出の旅路をも表現するものであった。例えば和歌山県東牟婁郡古座町古座地区のかつての葬儀も、旅路の様子をよく示している。漁村である古座地区は古座川の河口に面して細長い街をつくっている。それは背後の上野山が迫っておりわずかな川沿いの平地に家が密集しているからだ。
ここでは昭和50年代に火葬になり自宅での葬儀告別式も増えてきたが、それ以前の土葬の葬儀は、街から墓地への移動が生者の世界から死者の世界への帰ることのない旅を表現するものであった。
自宅で通夜をして別れを惜しみ死者を慰め、葬儀当日には自宅で出棺の読経をする。そして死者の口に水を含ませて最期の別れをすると、棺の蓋を閉じ、輿に納めて縁側から出棺する。この時に二度と戻らぬように茶碗を割り、生前神仏に掛けていた願をほどくために羽織を逆さに振って行列は出発する。死者の乗る輿は神や貴人が旅をするための乗り物である。

古座町の地図

古座町における葬列の順路

そして村境となる浜や山の中腹にある寺が葬場となり再び儀式が行われる。つまりこれらの場所は人々が生活する街との境界(寺は墓のある山の中腹にあり死者の供養の場、浜は盆の送りの場)であることから、死者の世界である他界への入り口でもあった。ここまで参列者全員が行列してくるのは、村人全員が死者を送り出すことなのである。ここで住職は引導を渡し、死者に悟りを開かせて仏浄土に送り出す。
引導作法をして会葬者がすべて焼香をすませると、家族、親戚のみが残り埋葬のため墓地に向かう。棺を輿から出し、親族に背負われて山道を越えていくのである。ふつうは街中を通って墓に行く方が近くて道も歩きやすいが、決して戻ることはせずに、険しい山道を家族、親戚が棺を背負っていく。つまり墓のある背後の山は死者のいる他界であり、人の住む世界ではなかった。
そして死者は決して街に戻ってはならないため、村境である寺や浜で送り出しの儀式をしてから山道を通って他界へ行くのである。そして険しい道は遠くて困難 な死出の道筋でもあった。そして遺体は埋葬され、自宅では位牌が祀られ、法事が行われる。村の空間自体が生者の世界と死者の世界に分かれており、葬儀の葬 列によって死者は二度と戻ることが出来ない旅に出たのである。

葬列の役割を記した紙

葬列の役割

古座町の寺で行われた葬式の様子

寺での葬式(古座地区)

古座町伊串地区の葬列の様子

寺に向かう葬列(古座町伊串地区)

古座地区における自宅の祭壇の様子

自宅の祭壇
これらの葬具はすべて葬列の持ちものとなる(古座地区)

喪服の変遷に見る時代の流れ

「喪中」という言葉は、現在では年賀状を遠慮するために年の暮れに出す年賀欠礼葉書で目にする程度となったが、喪中とはもともと死者を出した近親者が籠もっている状態をいった。近親者は死者が出ると通常の生活を送ることが出来ず、その関係に応じて忌み籠もったのである。
特に死後まもない時は厳格な忌みを必要とされ、そうした状態を他の人々にも知らせるために「忌中」という紙を貼ったりする。これは現在でもよく行われている。地域によっては、竹で入り口をふさいだり、縄などを張る場合もあった。
葬儀において、近親者は死者に寄り添って悲しみに浸るだけでなく、こうした忌み籠もりをすることも要求されているため、近所や親戚などの人々が実質的な葬儀の執行を担い、遺族はまったく口も出せないという慣習もあった。
こうした喪に服している人が着るものが喪服であり、もとは喪主をはじめ喪に服する近親者が着るものであった。喪服のことを「イロ」という地域も多いが、これは未染色の白い素材を指す。民俗学者の柳田国男は、イロとは白の忌み言葉であったと述べている。江戸時代には、都市の町人などは白上下や白小袖を使用していたようで、「いろ屋」といいそれを貸し出す商売もあった。現在でも新潟県佐渡島では「イロキ」という言葉があり、これは親族など葬儀に参列する人のことをいう。これは喪服を着る人という意味であろう。

ところで明治時代になると都市を中心に、葬儀で男性は紋服やフロックコート、ダークスーツなどの礼服が着られるようになる。一方、女性は白の喪服がしばらく着用されていた。都市部で女性が白い喪服から黒紋付の喪服になっていくのは、大正末から昭和にかけてと考えられる。
例えば東京芝浦のある商家では、大正二年の葬儀の写真では女性が白い喪服を着ていたが、昭和の葬儀写真ではすでに女性全員が黒い喪服姿である。地方ではそれより遅く、第二次世界大戦中も白い喪服が多く着用されていたのが、いろいろな写真からうかがえる。晴れ着を葬儀に着ることもあり、派手な振り袖を着るという地域もあった。

佐渡のイロ帳

イロキの人数を記した佐渡のイロ帳

白の喪服で行われた葬儀の様子

白の喪服を着た葬儀 (古座町・昭和初期)

現代の忌中看板

現在の忌中看板

昭和になると、東京などでは男女とも現在のように黒の喪服が普及していった。これは、宮中において洋装化の影響から黒い洋服を喪服として採用したことが大きく影響していると考えられる。
遺族が喪服を着る一方で、忌みを受けないその他近所の人々などは普段着、もしくは多少改まった服装で葬儀に参列したのであり、本来喪服を着ることはなかった。それは、近親者ではないため喪に服していないから当然のことでもあった。
ところが男性が遺族以外も黒紋付やフロックコートなど礼服をつけるようになると、遺族の喪服と遺族以外との服装の区別がなくなり、葬式に参加するための服が喪服として捉えられるようになった。現在では、遺族も一般参列者も服喪との関係は薄くなり、葬儀に参列するためのユニフォームとして捉えられるようになったのである。

地域によって異なるシカの使い方

シカもしくはシカバナといって、すぐそれをイメージできる人はどれくらいいるだろうか。今では祭壇が大きくなり、片隅に置かれているか、使われない場合も多くなったが、昔は、葬儀にシカは付きものであった。シカは四花、紙華、四ヶ華、死花などいろいろな漢字があてられるが、白もしくは金、銀紙の房状の飾りで、紙に切れ込みを入れたものを竹ひごに螺旋に巻き付けたものである。
このシカには仏教的な意味づけがなされており、釈迦入滅のときにその死を悲しんで、周囲の沙羅双樹が白く変わったことから、釈迦の涅槃になぞらえて葬儀の際に飾るようになったといわれている。
しかし、シカの作り方や使い方は地方によってさまざまであり、一概に釈迦涅槃の故事の模倣とはいえないようだ。
かつての報告によると、岐阜県揖斐郡藤橋村(旧徳山村)や東京都の八丈島では、シカは白木の削り掛けであったという。削り掛けとは白木を小刀で房のように削り出したもので、いまでも関東地方などで小正月の飾りとして作られている。この削り掛けは御幣(みてぐら)の原型と考えられている。

青森県金木町のシカ

依り代としてのシカ
(青森県・金木町)

形態の違いだけでなく、使われ方も多様である。シカが死者の依り代として用いられていた地域もある。青森県北津軽郡金木町では、シカは4本に分かれたもの1基だけであり、遺体、遺骨とともに、祭壇の中心に置かれており、位牌と同様、死者の依り代として捉えられていたようだ。ここでは亡くなるとすぐカリ(仮)シカといい、白い50センチほどのシカを1基飾る。このあたりは火葬の後、通夜、葬儀が行われるが、カリシカは火葬の時に遺体とともに焼いてしまい、葬儀の時にはあらためて約1メートルほどの大きなホンシカを祭壇の中央に立てる。つまり葬儀の祭祀の中心がシカなのである。
また、シカが花の代わりとして飾られる場合も多い。和歌山県東牟婁郡古座町では五具足の花瓶にシカを4本ずつ一対挿している。五具足とは花瓶、燭台、香炉と仏を拝するための基本的な仏具であり、普通の花瓶に葬儀の時はシカを挿す。つまり造花として捉えられていることがわかる。地域によっては白い紙で作るだけでなく、金紙や銀紙、時には紅白の紙で作るところもある。また石川県の浄土真宗の地域などでは、シカが巨大になり、高さが2メートル近くのものが花瓶に飾られるという。

シカが墓を区画して死霊を封じ、邪霊を入れないために使用される地域もある。葬儀が終わった後、シカを墓に持っていき、墓の四隅に立てる地域が岡山県などにある。さらにこの地域では、墓の四方にシカを立てるだけでなく、シカのことを地取りとも呼んでいる。つまりシカが墓を区画して結界を作るための道具として捉えられているのである。これについて五来重は、シカが墓の結界を行い、死霊を封じ込めたり、逆に邪霊を墓に入れないようにするためのものであり、風水思想や陰陽道との関係も考えられるという(『葬と供養』東方出版)。
これは他の地域で地買い麦や地買い銭など、土地の神から墓を買いとるという習俗が見られることも含めて推定している。
このようにシカも単なる飾りではなく、日本各地でさまざまな意味づけがなされ、用いられているのであり、その来歴は一概にいうことは出来ないのである。

造花のように使われるシカ

造花としてのシカ(和歌山県・古座町)

お盆の地獄絵

お盆になると地獄などが描かれた掛軸を掛けているお寺が多い。有名なところでは、毎年8月、京都六波羅の六道珍皇寺の六道参りにおいても、こうした絵が掛けられ、六道珍皇寺の近くの寺院では、さらにその絵の意味する教えをわかりやすく説く「絵解き」も行われる。
このときに用いられるものが熊野観心十界図である。これは江戸時代初頭、熊野比丘尼といわれる女性の宗教者が仏教の教えを説くために持ち歩いた絵である。十界図というように、迷いの世界である地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道と、悟りの世界である声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の四聖をあわせた十の世界が描かれている。さらにその中心には「心」という文字があり、そこから十界それぞれに赤い線が延びている。これは人の心の中には十界すべてが具わっており、心持ち次第で地獄にも堕ちれば、仏にもなれるという考えを表している。

しかし実際には十界といっても、絵の下半分は地獄の場面が中心である。その一方で特徴的なのは上半分にて人の一生が表現されていることで、子どもから大人、老人と段階を追って描かれている。はじめは、家で産湯をつかう誕生の場面である。登り坂には子どもから大人への成長の過程が春の梅や桜とともにある。頂上では松や杉が茂った夏山を背景に大人の夫婦連れがある。木が紅葉になる下り坂では歳を重ねて、孫に手を引かれた老女があり、終わりには冬山に死者の住みかである墓地が描かれている。つまり人生が四季にたとえられている。
こうして一生が終わるとあの世の始まりで、地獄を中心に、つねに飢え苦しみ物を食べようとしても食べられない餓鬼道や、動物となって人間に酷き使われる畜生道、人の姿はしているものの永久に戦い殺し合う修羅道などさまざまな苦しみの世界が生々しく描かれている。

六道珍皇寺の熊野十界観心図

六道珍皇寺の熊野十界観心図

地獄の様子については、生前の行いを写すという浄玻璃の鏡と生前の罪の重さをはかる業の秤があり、閻魔王によって亡者が裁かれている。また剣の山や業火に燃えた地獄の大釜での釜ゆで、暗闇の中を迷う闇穴地獄、氷に閉ざされた八寒地獄などがある。臼と杵で鬼が人をついている衆合地獄、炎に包まれた車で亡者を連れてくる火車などさまざまな地獄が見える。

そしてこうした苦しみの世界から救い出すための手だてもこの絵には示されている。それが中心にあるお盆の施餓鬼供養の場面である。施餓鬼供養とは、飢えた餓鬼に食べ物を施すことで、その善行が死者の供養になるという法要で、よくお盆に営まれることが多い。熊野十界観心図では中心に、餓鬼に施すための山盛りのご飯と餅を盛った祭壇があり、その前に十数人の僧侶が読経している様子が描かれている。こうした絵を通して、人々は地獄の恐ろしさを目の当たりにして、お盆の供養の大切さを勧められたのであった。

六道珍皇寺の施餓鬼会

六道珍皇寺の施餓鬼会の祭壇

施餓鬼会の様子

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