偉人たちの終日・歴史に名を遺した人の最後の時は、どのような様子だったのでしょう?

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葬祭研究所

偉人たちの終日

始皇帝(しこうてい)

紀元前259~210年
第31代秦王に即位後、列強諸国を滅ぼして中国史上最初の統一国家を建設。諸制度を整え、万里の長城を増築して異民族を撃退。49歳で病没後、秦は漢の劉邦により滅亡される。
■参考文献:『史記列伝』小川環樹・今鷹真・福島吉彦(岩波文庫)

永遠の命を求めて東奔西走
天下を傾けた始皇帝の宝探し

中国4千年の歴史の中で英雄英傑は多けれど、秦の始皇帝ほどエピソードに富んだ人物はいないでしょう。今回は、”china“の語源ともなった大帝国を築き上げた始皇帝が、生涯をかけて探し求めた秘薬の謎に迫ります。

不老不死の仙薬は水銀だった?

紀元前221年、戦国乱世の中国を統一し、史上初めて「皇帝」の称号を名乗った秦の始皇帝。現世のあらゆる権力を極めた彼が次に望んだことは、永遠の命を手に入れ、生きながらにして秦の国を統治し続けることでした。始皇帝は、いにしえより霊峰としてあがめられてきた泰山に登って自ら神仙術を学んだほか、莫大な費用と労力を注いで、遠く日本やベトナムにまで不老不死の秘薬を探し求めたといいます。
そんな噂を聞きつけた方士や道士たちは、一獲千金を夢見て始皇帝に秘薬を献上しましたが、その中には水銀やヒ素のような猛毒も含まれていました。不老不死の妙薬は、まさに始皇帝の健康をむしばむ毒薬だったというわけです。
紀元前210年7月、巡遊中の始皇帝はにわかに体調を崩し、中国東北部の沙丘の地で死去。享年49歳。その遺骸は、水銀の川が流れ、黄金のガンが群れ飛び、天井に人工の星座が光り輝く豪勢な地下陵墓に葬られたと伝わっています。

始皇帝

盛者必衰、生者必滅のことわり

司馬遷の史記「秦始皇本記」によると、「始皇帝は鼻が高く、目が長く、胸がクマタカのように突き出し、ヤマイヌのような声を発し、残忍で虎狼のごとく心を持つ」と記述されています。猜疑心が強く、他人を信用しない彼が、なぜ虚空の神仙世界にのめり込んでいったのでしょうか。冷酷で不遜なイメージがまとわりつく始皇帝ですが、実は迫り来る死の恐怖におびえながら、ひたすら秦の国の発展を願い続けた―、そんな人間味あふれる懊悩に苦しんだ姿が浮かび上がってくるようです。
始皇帝の願いも虚しく、その後、項羽と劉邦2人の英傑の登場によって秦はわずか15年で滅亡してしまいます。始皇帝が築いた絢爛豪華な宮殿や彼が眠る陵墓はことごとく破壊され、その炎は3カ月の間、秦の都咸陽の空を焦がしたともいいます。
わずか一代で広大な中国を統一し、空前の大帝国を築きあげた秦の始皇帝。永遠の生命を追い求めるあまり、自らの足もとが音を立てて崩れていくのに気づかなかったのかもしれません。

高 師直(こうのもろなお)

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足利尊氏の執事として、弟の師泰とともに室町幕府成立に尽力。新田氏、楠木氏など南朝勢を打ち破って大いに功績を挙げたが、尊氏の弟・足利直義と対立して殺された。

これぞまさしく因果応報!?
希代の英傑の哀れな最期

戦国動乱の世の中を力ずくで平定していった武士たち。荒々しいそのイメージとは裏腹に、死を目前にして何とか生き延びたいと蠢動する人間的な一面が見え隠れします。今回は室町幕府の実力者、高師直の哀れな最期を紹介します。

高家に伝わる天下取りの遺言状

高師直・師泰。世が室町時代初頭なら、高兄弟の名前を聞いただけで震えあがってしまうことでしょう。彼らは足利尊氏に従って、鎌倉の北条氏を滅ぼしたほか、最大のライバル・楠木正行を四条畷で撃破するなど、数々の武勲をたてました。室町幕府が成立すると、兄の師直は執事(のちの管領・将軍の補佐役)、弟の師泰は武士を統制する侍所の地位を与えられ専権を振うようになります。
『太平記』には、兄師直の横暴について「驕淫奢侈、兇威をほしいままにし、その巨毒をたくましくして怨告する者多し」と描かれています。それもそのはず。師直は、貴族や社寺の荘園を勝手に切り取って部下にどんどん与えたほか、気に入らぬ者があれば相手の身分に関わらず、容赦なく攻め殺してしまったからです。
実は、高家には代々伝わる秘密の置文があり、それには「我が孫は必ず天下を取って家名を輝かせよ…」と記されてあったとか。高兄弟は千載一遇のチャンスに接し、いまこそ天下を我が手にと意気込んでいたのかもしれません。

高師直

女装を見抜かれ、命乞いも虚しく

しかし、彼らの栄華も長続きはしませんでした。反旗は足利幕府内部からひるがえり、小さな城に逃げ込んだ高兄弟は敵の大軍に取り囲まれてしまいます。そのとき、側近の一人が武士らしく討ち死にすることをすすめましたが、日頃の威勢はどこへやら、何とか命が助からないものかと、小さく肩をすぼめてうなだれるばかりでした。
やがて、師直に父を討たれた上杉顕能が城に乗り込み、血まなこになって憎きかたきを捜し回りましたが、どこにもその姿が見あたりません。すると、城から出ていく降将の中に、編笠で深く顔を覆い、絣の着物をまとった二人の女官がいるのに気づきました。
「そこの者、なぜ顔を隠すぞ」と問いただしても、女官は小刻みに震えて押し黙っているばかり。笠をはねのけてみると、なんと頬に紅をさし、女性の姿に身をやつした高兄弟だったのです。兄師直は即座に斬られ、弟師泰は思いつくだけの命乞いの言葉を並べたものの、それは寒空に虚しく響くだけでした。
天下に指をかけながら、あまりに哀れな最期を遂げた高師直。「人は死して名を残す」といいますが、彼はまさに「往生際」の悪さゆえ、後世まで名を残す羽目になったのです。

モーツァルト

1756年~1791年
ザルツブルクの宮廷音楽家の家庭に生まれる。幼少の頃から神童の誉れ高く、35年の短い生涯の中で600以上の名曲を書き残した。代表作に「フィガロの結婚」「魔笛」「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」など。

音楽史上、最大のミステリーに迫る
だれがモーツァルトを殺したか?

音楽史上に燦然と輝く大作曲家、モーツァルト。しかし、彼の軽妙でテンポのよいリズムとは裏腹に、その生涯は謎と神秘に満ちているのです。今回は、35歳のあまりに早すぎるモーツァルトの死の真相に迫ります。

天才音楽家の寂しい最期

1791年12月5日、みぞれ混じりの冷たい雨が降りしきる中、わずか10年前にモーツァルトが結婚式を挙げたシュテファン寺院で、彼自身の葬儀がしめやかに執り行われました。享年35歳。遺体は時を移さず、その日のうちにウィーン郊外にある共同墓地に埋葬されましたが、墓碑さえ建てられなかったため、間もなく正確な墓の位置は分からなくなりました。同時代に活躍したベートーヴェンやシューベルトが立派な墓所に葬られたのに比べ、あまりにも寂しく哀れな最期だったといえるでしょう。
「どうやら毒を盛られたらしい…」。これはモーツァルトが死の直前に書き残したダイイング・メッセージです。働き盛りの偉丈夫が急死したにもかかわらず、検死もろくに行われなかったこと、モーツァルトに近づく謎の仮面男がたびたび目撃されていることなど、確かに彼の死には不可解なミステリーがつきまとっています。こうした死にまつわる疑問から、いつしか「モーツァルトは毒殺された」という噂がささやかれるようになりました。
では一体、だれが、なぜ、モーツァルトを殺さなければならなかったのでしょうか?

モーツァルト

モーツァルトを殺した3人の容疑者

第1の容疑者は、モーツァルトの同僚で宮廷音楽家だったサリエリという人物です。彼は死の前年、「モーツァルトの才能を妬んで、自分が毒を盛った」と告白しています。1984年にアカデミー賞を獲得した「アマデウス」という映画でも、このサリエリが真犯人とされています。
第2の容疑者はモーツァルトの妻のコンスタンツェです。彼女はモーツァルトが亡くなったとき、別荘に遊びに出かけていて留守。とうとう葬儀にも参列しませんでした。その後、すぐに再婚していることなどから、恋愛感情のもつれから夫を殺害したというのです。
最後の容疑者はモーツァルト本人です。モーツァルトには持病があり、その治療のために当時特効薬とされた水銀を服用していました。猛毒の水銀が、彼の身体をむしばんでいったことは想像に難くありません。
モーツァルトの死因については、このようにいまだ多くの説があってはっきりとしませんが、彼が生み出した美しい旋律は、200年の時を隔ててなお私たちに感動を与え続けていることは確かなようです。

シェークスピア

1564年~1616年
イギリスの劇作家、詩人、文学者。俳優志望だったが、エリザベス女王に認められ、生涯に37編の戯曲と数冊の詩集を残した。代表作に「ハムレット」「リア王」「ロミオとジュリエット」など。

名作はどうやって生み出されたか?
謎に包まれた、シェークスピアの正体

世界でもっとも有名な劇作家といえば、まっ先にシェークスピアの名前が挙げられるでしょう。
彼は生涯に素晴らしい名作をたくさん残していますが、その伝記の曖昧さゆえに存在そのものが疑われているのです。
今回は、シェークスピアの知られざる正体に迫ります。

本当は無学無知だった!? 天才作家の意外な素顔

イギリスが生んだ最高の劇作家であり、死後400年近く経った今も世界中に多くのファンを抱えるシェークスピア。かつての大英帝国では、「植民地のインドを失っても、シェークスピアは失いたくない」と言わしめるほどの人物でした。しかし、それほど偉大で有名な人物であるにもかかわらず、彼の生涯は多くの謎に包まれています。
シェークスピアは16世紀半ばにイギリスの田舎町の名家に生まれましたが、父親の事業が失敗したために、学校もろくに卒業することができなかったようです。にもかかわらず、彼が残した数々の作品は、ギリシアやローマの古典文学に精通した人でなければとても書けないような高度な内容ばかり。また、彼に関する日記や手紙類がほとんど見当たらず、わずかに残された彼の署名は大変な悪筆で、“Shakspere”という間違ったスペル(シェークスピアの正しいスペルは “Shakespeare”)で綴られていることから、本当は文字を満足に知らなかったのでは…と疑う人もいるのです。

シェークスピア

数多く存在した、シェークスピアのドッペルゲンガー(幻影)

シェークスピアは本当に実在したのでしょうか。あるアメリカ人が、シェークスピアの墓を掘り起こして正体を暴こうとしたところ、その墓石には「わが墓を動かすものには呪いあれ」という文字が刻まれていたため、恐ろしくなって断念したのだとか。なぜ、墓石にそんな恐ろしいことを書かなければならなかったのでしょうか。
「シェークスピアの正体は、哲学者フランシス・ベーコンだ」と主張する人もいます。同時代に活躍したベーコンは海外の古典文学や博物学に精通していたうえ、その著書に残された肖像画がシェークスピアにそっくりだというのです。また、新進気鋭の劇作家として売り出していたマーローが、シェークスピアというペンネームを使ったのではないかという説もあります。シェークスピアの初期作品である「ヘンリー六世」は、実はこのマーローが書いたという専門家の鑑定結果もあり、賛否両論の大論争を巻き起こしています。
「だれの言葉にも耳を貸せ、口はだれのためにも開くべからず…」。シェークスピアの代表作「ハムレット」のセリフのように、その真実は土に埋もれて容易に解明されそうにありませんが、彼が残してくれた珠玉の作品は、今も精彩を放ち読者を魅了しつづけています。

坂本龍馬(さかもとりょうま)

1835年~1867年
名は直柔(なおなり)。土佐藩士。江戸で勝海舟に入門して航海術や砲兵学を学ぶ。のち、長崎に土佐海援隊を結成。西郷隆盛、木戸孝允らとともに薩長連合を実現し、大政奉還に全力を尽くした。

不出世の英傑
坂本龍馬の”一生の不覚“

日本史のスーパースターといえば、まっ先に名前が挙げられるのが坂本龍馬でしょう。幕末動乱の時代に彗星のごとく現れ、維新回天を成し遂げて散っていったその生きざまは、いまも多くのファンを魅了し続けています。今回は、多くの謎に包まれた坂本龍馬暗殺の真実に迫ります。

龍馬殺害の意外な真犯人

慶応3年(1867)11月、坂本龍馬は京都河原町蛸薬師の近江屋に隠れているところを数人の刺客に襲われ、その波乱に満ちた人生を終えました。享年、33歳。希代の英雄・龍馬の死はほかの勤王志士たちに大きな衝撃を与えました。それもそのはず、龍馬は、これまで仇敵のごとくにらみ合っていた薩摩と長州の同盟を実現し、徳川幕府が朝廷に政権を返上する大政奉還のきっかけを作った人物。これからの日本の新しい国づくりにはなくてはならない存在だったからです。
明治維新になるまで、龍馬暗殺は壬生の狼・新選組の仕業に違いないと考えられていました。しかし、新選組と同じく京都の治安維持に当たっていた元京都見廻組の今井信郎の証言によって、いまでは同組与頭だった佐々木只三郎ら七人が真犯人ではないかと推測されています。
勝海舟もその日記の中で、「…龍馬暗殺は佐々木只三郎や今井信郎などの輩が実行したものだが、(薩長同盟を快く思っていない)幕府目付の榎本対馬守あたりが命令したのだろう…」と書き残しています。

坂本龍馬

剣よりも法律・・・。一瞬の油断が命取りに

いかに京都の治安が乱れていたとはいえ、龍馬は北辰一刀流の免許皆伝の腕前。自分自身も刺客に命を狙われていることは十分に知っていたはずです。それなのになぜ、あっさりと暗殺されてしまったのでしょうか。
こんなエピソードがあります。龍馬の友人が殿様からもらった名刀を自慢していると、龍馬は懐からおもむろにピストルを取り出して「刀で戦う時代は終わった」と放言。別の日、その友人が「俺もピストルを手に入れた」と言うと、龍馬は万国公法という法律書を取りだして「これからの時代は法律を勉強すべきだ」と一喝したというのです。
龍馬の慧眼ぶりを示す逸話ですが、龍馬とともに殉難した中岡慎太郎(二日後に絶命)が、「刀を手元に置いておかなかったのは一生の不覚だった…」と述べているように、龍馬の心のどこかに油断があったとしか考えられません。しかも、京都寺田屋で伏見町奉行所に襲われたときに、危機を救ってくれたピストルを持っていなかったようです。
歴史に「もしも」はありませんが、もし龍馬がもう少し長生きをしてくれていたなら、明治の日本の歴史は大きく塗り替えられていたに違いありません。

小野小町(おののこまち)

809(?)~?
六歌仙、三十六歌仙の1人。「小野氏系図」によると出羽郡司小野篁の孫という。仁明天皇の更衣として宮中に仕えた小野吉子と同一人物だとされるが、その詳細は一切不明。

絶世の女流歌人
小野小町の謎多き生涯

「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」。平安時代に活躍した女流歌人、小野小町。これほど有名な人物にもかかわらず、その生涯は大きな謎に包まれています。今回は、日本全国に伝わる小野小町の伝説にその足跡を訪ねます。

深草少将との恋に破れて、傷心の旅へ

小野小町といえば、「楊貴妃」「クレオパトラ」と並んで世界三大美人に数えられる絶世の美女。小野貞樹や僧正遍昭ら一流歌人との相聞歌が数多く残されていることからも、彼女がいかに当時の男性から人気があったのかを知ることができます。
小町にまつわるエピソードとして最も名高いのは、深草少将との悲恋物語でしょう。華やかな宮中を去って、京都山科の小野郷と呼ばれる地に隠棲した小町。
彼女に思いを寄せる深草少将は、小町のもとに百日通うことを決め、千里の道を遠しとせずに雨の日も雪の日も出向いては、小町の家の軒先に榧の実を置いて誠意の証としていましたが、九十九日目の雪の降る晩、ついに力尽きて死んでしまうというもの。有名な百夜通いのくだりです。
深草少将との恋に破れた小町は傷心の旅に出たというのですが、実はその後の彼女の足どりはさっぱり分かっていません。小町の伝説はそれこそ、東北から九州まで全国津々浦々まで伝わっていて、それぞれにもっともらしいお墓や史跡を残しているのですが…。さて、小野小町終焉の場所とは一体どこだったのでしょうか。

小野小町

哀れ小町の最期、流浪の果てに・・・

「吾死なば焼くな埋めるな野に晒せ痩せたる犬の腹肥やせ(私が死んだら、野にさらしてお腹をすかした野良犬の餌にでもしてくださいな)」。これは京都・市原の里に伝わる小町辞世の句とされています。流浪の果てに洛北の地にたどり着いた小町。ふと井戸をのぞくと、骨と皮ばかりにやせ衰えた自分の容姿が水面に揺れています。彼女は老いの悲しみに身もだえしながら、井戸に身を投げたというのです。
もう一つ、丹後大宮の五十河地方も小町最期の地として有名です。天橋立に向かう途中、病の床についた小町。彼女はここで力つき、里人たちに看取られて亡くなります。伝わる辞世句は「九重の花の都に住まわせではかなや我は三重にかくるる(花の都に住んだ私なのに、ついにこの三重の里で隠れて亡くなるのだわ)」。
一方、比較的信頼できる『冷泉家記』などによると、小町は京都府井手町にあった井提寺別当の妻となり、幸せな晩年を過ごしたとも記されています。いずれが真実なのか、千二百年を隔てた現代では知る由もありませんが、彼女の清らかで優美な歌が今も私たちの心に生きていることだけは確かなようです。

徳川家康(とくがわいえやす)

1542(天文11)年~1616(元和2)年
関ヶ原合戦で石田三成らを破り、征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いた。
大坂の陣で豊臣氏を滅ぼして幕府の基礎を固めた後、75歳で病没。
参考文献:『徳川三代』二木謙一監修(NHK出版)

天下人から東照大権現へ
死して人間を超えた徳川家康

戦国乱世に終止符を打ち、260余年にわたる天下泰平の世の礎を築いた徳川家康。
その75年の生涯は、後世の私たちの心をとらえて離さないドラマティックなものでした。今回は、歴史の表舞台には登場しない家康の葬儀に関わるユニークなエピソードを紹介します。

我が亡骸は久能山へ葬れ

元和2(1616)年4月17日午前、稀代の驍将(ぎょうしょう)徳川家康は、波乱に富んだ75歳の生涯を閉じました。好物だった鯛の天ぷらを食べ過ぎたのが死因といわれていますが、実際には胃の持病が悪化したようです。当時は人生50年といわれた時代。2代将軍秀忠が54歳、3代将軍家光が48歳で亡くなっていることからも、家康がいかに長寿だったかが分かります。
「自分が死んだら遺体は久能山に埋葬し、1周忌が過ぎたら日光山に小堂を建てて勧請すること。自分は関八州の鎮守となるだろう――」。これは家康が死の2週間前に側近に残した遺言です。駿河湾に面して屹立する久能山は、武田信玄の築いた城塞が残る要害堅固の地。死に臨んでなお、子孫の繁栄を願う家康の胸中やいかばかりだったでしょうか。
家康の亡骸は雨天の中、その日のうちに粛々と久能山に埋葬されましたが、菩提寺増上寺での葬儀はついに執り行われませんでした。実はこれは、家康を「神君」へと導く壮大なプロローグだったのです。

徳川家康

諸大名を仰天させた絢爛豪華な改葬の儀式

元和3年2月8日、家康の遺命に従って久能山から日光山への遷座が実行に移されました。改葬の様子を描いた江戸時代の絵巻物「御祭礼行列絵巻」には、家康の遺骨を乗せた絢爛豪華な神輿や太刀持、楽人のほか、神の遣いであるサルの着ぐるみを身につけた人が派手やかに行列する姿が描かれています。
まさにこの霊遷行列こそ、人間・家康を偉大なる東照大権現に昇華させる儀式であり、諸大名に徳川幕府の威光を知らしめるデモンストレーションでもあったのです。3代将軍家光は日光東照宮をさらに壮麗な社殿に造り替え、自らも慈眼堂の傍らにひっそりと眠っています。
「人の一生は重荷を追うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず…」。信長、秀吉の陰で隠忍自重を迫られ、60歳を過ぎてようやく天下を手中に収めた徳川家康。その含蓄ある人生訓は400年後の私たちにも学ぶべき点が多いようです。

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