葬祭研究所フリーコラム。お骨仏の寺や戦争独身者が思いを結んだ「女の碑の会」。

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葬祭研究所

葬祭研究所フリーコラム

コラム1 ≪お骨仏の寺 一心寺≫

大阪天王寺駅から徒歩約10分、ガラス屋根の下に立つ阿吽の仁王像に招かれるかのように多くの人々でにぎわっている場所がある。一心寺である。

一心寺は遺骨を粉末状にして固めた仏像、「お骨仏」で親しまれている。またこの寺は年中無休で施餓鬼法要を行っていることでも知られている。通常ならば施餓鬼法要は年に1回檀家向けに行うものだが、一心寺には特定の檀家が無い。その門戸は一心寺と結縁を願う総ての人々に対して開かれている。そこで「常施餓鬼法要」を毎日行っているのだ。

一心寺の仁王門

モダンな雰囲気の仁王門

山門や建物の佇まいからは新しい寺院のような印象を受けるが、その歴史は古く、文治元(1185)年までさかのぼる。この場所で見た夕日に魅せられた法然上人が小さな草庵を結んで滞在したのが一心寺の発祥である。

その後、徳川家康の8男、仙千代君の遺骨が一心寺に葬られ、また大阪夏の陣では徳川方の本陣がここに構えられたことから、一心寺は他寺院とは一線を画す存在となった。

一心寺で最初にお骨仏が作られたのは明治20(1887)年で、江戸時代末期からの納骨された遺骨、約5万体で造立された。その後、10年毎に1体が造立され、昭和13年までの遺骨で6期分(6体)が安置されるに至ったが、戦災で焼失した。戦後初となる第7期のお骨仏は、第6期までのお骨仏の破片と遺灰を集めたものと昭和22年末までに集まった遺骨をあわせて造立した。現在、平成8年までの遺骨で造られた第12期のお骨仏が最新で、全部で6体が納骨堂に安置されている。

お骨仏の説明

納骨にかかる費用は一霊につき小骨(のど仏)1万円、1万5千円、2万円、胴骨1万5千円、2万円、3万円となっており、納骨する人自身がその中から費用を選択して決定する。現在年間約1万5千体から2万体の遺骨が納骨されることから、平均して日に50体もの納骨がある計算になる。

一心寺の納骨堂前の様子

訪れる人で絶えず賑わう納骨堂前

都心部の墓地は高額かつ非常な倍率であり、ごく一部の限られた人しか手に入れることが出来ない。また、郊外の墓地へは「思い切って」墓参りをしないといけ ないほど遠い。家族形態も変わり、墓の面倒を見る者もいない―昨今のお墓事情を考えると、交通至便な天王寺にあって、いつも絶えることなく祈りが捧げられ ているお骨仏の一部になることは、後の人生、とても幸せな選択肢なのではとも思う。
尚、永代祠堂(供養)を申し込めば納骨受付の翌年から33年の間、命日に本堂で回向をしてもらえる。費用は10万円以上とのことだ。

≪ 一心寺仁王門縁起 ≫

この山門は平成九年四月、第十二期お骨佛開眼大法要にあわせて、平成七年より二ヶ年をかけて建立されました。仁王尊は彫刻家・神戸峰男氏による五メートル 余の青銅像であります。左側・口を開いている阿形(あぎょう)像は心の邪念を戒(いまし)め、右側・口を閉じた吽形(うんぎょう)像は世の紊(みだ)れを 睨(にら)んでおります。扉の四人の天女は画家・秋野不矩(ふく)氏の原画を神戸氏が浮彫りにされました。インドから日本にいたる佛教世界の文化を帯して 少しづつ顔やお姿が違います。インドの佛蹟では人々がその胸と腰にふれて、生命のご利益とされます。
昭和二十年に空襲で焼失した旧山門が大阪城玉造り御門の移築と伝えられ、「黒門」とよばれていたことに因(ちな)んで、新山門もまた今日的意匠による黒い門として復興いたしました。

碑文より

一心寺の納骨堂

一心寺仁王門の解説板

一心寺への交通アクセス

コラム2 ≪常寂光寺≫

京都の中でも特に四季の移ろいを鮮やかに感じることが出来るのは、嵯峨野であろう。近年観光客が増えるにしたがって、竹林の小径も「閑けさ」を愉しむのは一苦労なのだが、何時訪れても美しい景色に出会えることに変わりはない。「ここの山は季節に合わせて化粧をするさかいに」と誰かが言った。  

さて小倉山に溶け込むかのようにしてそっと佇むのが「常寂光寺」である。慶長元年(1596)日蓮宗大本山本圀寺16世の日襯(にっしん)上人が隠棲し た庵を寺院に改めたところにはじまっており、百人一首の撰者である藤原定家の「時雨亭」があった場所といわれている。常寂光寺の名は日蓮宗の教義にある 地、「静寂の常寂光土を思わせる」ところから名付けられた。
運慶作と伝えられる仁王像を後にし、伏見城の遺構である本堂、妙見堂、重要文化財の多宝塔を急斜面に息を切らしつつ見る。振り向けば嵯峨野の風景を一望にすることが出来る。

常寂光寺の山門

そういった見学コースを外れて、「女の碑」への道しるべがある。「女ひとり生き ここに平和を希(ねが)う」と刻まれたこの碑は、1979年、当時参議院議員であった市川房枝の名の下に建てられた。第二次世界大戦で200万人を超える男性が戦死し、その半分が未婚のままという陰で、独身のまま生きることを余儀なくされた女性も多数いる。同じ境遇の戦争独身者が思いを結んだ「女の碑の会」(代表:谷嘉代子さん)の記念碑である。「女の碑」の後ろ、生垣を隔てては彼女たちの共同納骨堂である「志縁廟」が建てられており、「女の碑の会」の会員は「血の縁」ではなく「志の縁」のもとに建てられた墓に共に眠ることになっている。世間の冷ややかな目もあって、女性独りで生きて行くことがまだまだ難しい時代において、懸命に自らの手で人生を切り開いてきた彼女たちは、独身者の切実な悩みである終の住処もまた自分達の手で用意したのである。

常寂光寺の志縁廟

「女の碑」は戦争を2度と繰り返してはいけないという戒めであると同時に、社会環境や家族形態が変化し、地縁や血縁が古くから担ってきた役割をもはや果たせなくなっている現在において「それらを見直す時期にきている」のではないか、という提案を我々に投げかけているようにも思える。
常寂光寺には寺を囲む塀が無い。自然そのものとも言えるこの寺が、思い以外のしがらみ無く静かに眠ることを願う彼女たちに選ばれたのは偶然ではないだろう。

女の碑の説明

女の碑

≪ 碑文の全文を記す ≫

1930年代に端を発した第二次世界大戦には、二百万にのぼる若者が戦場で生命を失いました。その陰にあって、それらの若者達と結ばれるはずであった多くの女性が、独身のまま自立の道を生きることになりました。その数は五十万余ともいわれます。女性のひとりだちには困難の多い当時の社会にあって、これらの女性たちは懸命に生きてきました。
今、ここに、ひとり生きた女の“あかし”を記し、戦争を二度と繰り返してはならない戒めとして後世に傳えたいと切に希います。さらに、この碑が今後ひとり生きる女性たちへの語りかけの場ともなることを期待します。
この碑は、独身女性の連帯の組織である独身婦人連盟の会員が中心となって、常寂光寺の支援のもとに建立しました。

碑文揮毫 参議院議員市川房枝
一九七九年一二月 女の碑の会

◆常寂光寺◆

場所
京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3
交通
  • 京福電鉄「嵐山」下車 徒歩約25分
  • 阪急嵐山線「嵐山」下車 徒歩約35分
  • JR京都駅から京都バス、市バス28
  • 四条河原町、京阪三条から市バス11
  • 各バスで、「嵯峨小学校前」下車 徒歩約15分
拝観時間
9時~17時

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